義妹よりの手紙 2007/1/15

中国に義理の妹がいる。私の継母が、戦争中に当時満州と言っていた地に渡り、そこで中国人の兵士と知り合い結婚して三人娘をもうけたのである。
敗戦後継母は、三人の子供を中国に置いて日本に帰ってきた。その後継母は、自分の過去を隠したまま、私が二十歳の時に、私の父と結婚し私の母となった。
父は気難しくて神経質で、祖母も私が子供頃の継母も、父と付き合うのにとても苦労していた。私自身も父とどう接していいかわからなくて苦しんだ。
ところが新しく継母になってくれたこの人は、驚くほど父を自分に従わせた。私はそのことを、『父はよくしてもらっている。我慢してもらっている。』と理解していて、この母に深く感謝をするようになっていた。
だが感情は、この母がずうっと好きではなかった。この人から深い傷も受けた、という思いも強くあった。


だが、2003年に父が他界し、80半ばになった継母が過去を語ってくれて、「死ぬまでに、中国に残した三人の娘に会いたい。」と聞いた時、自分の傷や痛みは真実消滅した。ただただ、いたいけな三人の娘と引き裂かれて戦後の闇のような時代を生き抜かなければならなかった母の胸中を悼んだ。
そして2004年に中国に行き、継母は約50年ぶりにわが子の会い、私は義理の妹に会ったのである。


私はこの中国行きで、無神経な第三者によって、自分の切実な継母への労わりや感謝の想いが踏み潰されたという思いをもつ経緯があり、その傷は思った以上に深く、後しばらく深刻な欝と闘わなければならなくなったほどであった。
それゆえに、継母とも縁を切りたいと思いつめるほどであった。そういう態度にもなっていた。
だが今年も、中国から年賀状が届き、ふと自分の頑なになっていた心がとけるのを覚えた。完全にとけてはいないだろうが、頑なであってはいけない、関係のない人間の無神経さや思い遣りのなさに振り回されることはない、継母と義理の妹たちに愛情を保つ努力をするべきだ、と思うようになっているのを自覚したのだ。


この手紙を書いてくれた愛莉さんという人は、継母の長女で、継母が自分に黙って姿を消した時4歳であった。後伯父さんに育てられた。一昨年、中国で会った時、みんなで苦労した話をしあっていたら、「一番苦労したのは私よ! 一番、辛かったのはわたし!」と鋭く言った。
私は、その時のことが忘れられない。それぞれの痛みが、突き刺さってきた。自分自身の痛みとともに。
ここで社会派のような言い方はしたくないが、私たちはまぎれもなく戦争で傷ついてきたもの同士だ。
私は実母を亡くし、そして、私が4歳の時に戦地から帰還してきて一緒の暮らすようになった父から、戦地で受け苛まれた傷跡をもっていた父のその傷口を露にしたような歪んだ言動を、幼かった私が独り引き受けなくてはならなかった・・・この痛み、無残な傷・・・これはまさしく戦争からのものだ。


私たちは、この痛みがゆえに、許しあわなければならない、と、今、痛切に思う。私がそうしなければ・・・と。
そんな思いをもって、中国の妹からの手紙をここに出すことにした。
翻訳をしてくださったのは、継母の家の近くの中国人、Lさんです。Lさん、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。


<手紙の訳文>
 お姉さん、お元気ですか、ご主人様のお体は良くなりましたか?
 私達はご主人様の病状のことをずっと心配しています、お姉さんはお仕事しながら、
介護にも頑張っています、本当にお疲れ様です、こんな強い精神力に感動しました。
 以前にも、お姉さんに手紙をお送りましたが、お姉さんからのお手紙をお待ちしております。
息子さん達の仕事は順調に進んでいますね。
 私達は定年になりました、毎日お家で家事をしたり、孫の世話をしたり、充実な生活を送っています。
私達のことを心配しないでください。
 最後に皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。

戦争から帰ってきた父との暮らしを、『風のむらからさわこ』という児童文学に書いています。もう絶版になっていますが、もしどこかの図書館で目にとまりましたら読んでみて下さい。