フリーカメラマン大石成通氏の言葉

私の別ブログ「崖下の童話作家Mの動物日記」からの転載です。http://d.hatena.ne.jp/maoz/


アニマルポリスを誕生させようの管理人さんから、3月20日発売の週刊朝日に、フリーカメラマンの大石成通(おおいし しげみち)さんの『セブンデイズ ―殺処分された犬たち―』が掲載されるとの通信があった。
大石氏は、長年「動物管理センター」を取材されてきた方で、このたびその記事が週刊朝日に掲載されるということだ。あの動物管理センターを取材し続けることなど、なかなかできることではない。もし動物の生命や心を慈しむ気持が少しでもある方なら、あの現場の状況を撮り続けるのは難しい。並大抵ではない強靭な精神と神経、そして意志力を求められる。
それを続けてこられた大石氏は、多分、生命の意味や生命と心を博愛する精神を人並み以上に持たれているのだろう、と思う。そうでなければできるはずはないのだ。
・・・このような認識をもって、この通信文を拝見した。
私は、啓発運動や愛護活動に打ち込まずに生きてきた人間だが、それは、実際に捨てられ寂しさ、飢餓、不安、恐怖、寒さなどなどの中から必死で親を呼ぶ、猫たちや犬たちの、その声、心に感応するあまり、それ以外のことに取り組む力や意志力を残していなかった、ということだ。
同じところにいても、「助けてー! 寂しいよー、来てよー、抱きしめてよーっ!」と叫ぶ声が聞こえる人と聞こえない人がいる。それは、真実ただ聞こえたか、聞こえなかったか、の問題に過ぎず、どちらがよくて、どちらは悪い、というものではない。
私自身、聞こえた時は聞こえた、ということで、聞こえなくてそのままになったこともあったに違いないのだ。また、別の問題のことでは、何が聞こえても、何を言ってるかさっぱりわからないこともあっただろう。いや、その方がずうっと多いだろう。


そう、私は、自分が猫や犬を必死で救い守ってきたことを、それが「正しいから」でも「美しいから」でも「優しいから」でもない。いたいけな泣き声に、ただただ夢中で手を伸ばしてきただけだ。
・・・それでも捨てられる猫や犬を受け止め続ける現実の生活の中では、自分の認識どおりに全てに冷静でいられることはできなかった。
気に入った環境で気に入った新しい家を得た生活が、猫だらけ犬だらけになり、小学生だった息子はそのことでイジメの嵐に襲われ、経済の破綻は家族への罪悪感で私の神経を蝕み、私は尋常でない不安と24時間毎日毎日闘わなければならなくなった。そして、自分のアイディンティティを失い、自分の存在そのものへの自信を失い、惨めな体たらくを露呈していくようになった。
それでも、私を信じる無心な生命と心を裏切ることはできなかったし、そんなことは思いもしなかった。
私は常に、割れかけそうな薄氷の上で、多くの猫や犬を全身にぶら下げるようにしていた。


この時代・・・怖かった。寂しさかった。重かった。家族や近隣の人への責任感で心身が押し潰れそうだった。救われたかった。キリスト教会に通ったのも、愛護団体の人についてまわったのも、児童文学をやろうとしたのも、そこから、根源的な救いが見つかれば、という必死な願望があったからだった。
でも、そんな必死な切羽詰ったもので頭も心もいっぱいの私が理解されるはずはなかった。強気の私は常に徹底して刀を大上段にふりかぶっていたのだ。きっと、私の切実な祈りのような願望より、自分の価値観を他者に押し付けるレジスタンス、あるいはテロリストに人の目には映ったのだろう。


世間の無理解と生活そのものの苦しみの渦中に独りいる人間の行き着く果ては「絶望」と「諦め」と決定的な「自信喪失、自己喪失」だ。
「絶望」と「諦め」と「自信喪失、自己喪失」に落ちた人間に待ってるものは、人々の「歪曲」だ。私が私のもっているものと努力で正当に得た結果についてすら、人は、まるで私が邪な手をつかって得たかのように言い立てたし、はっきりとした謀にかけられたこともあった。もっとも私自身が、何とか立場を自分なりに正常なものにしたいとした言動がもはや他者に正当に認識させる力を失っていて、おどおどとおろおろと妙な言動をすることになっていたから、善良な人たちが私をおかしい、と思い嘲笑したことは、歪曲した、ということではない。普通のことなのだ。・・・この時代のことは別の形で表わすことになろうと思う。今は悲しみと切なさの気持以外の何も思っていない。


こうした時を経て、生活の現実は悲惨といえるほどの窮状を迎えているが、最近、動物問題を何らかの活動をしていこうかと思えるほど立ち直って、心持にも陰がなくなってきた。


それでも、動物愛護活動関係の上で、「動物を可哀想とか、好きとかという感情ではダメで、法律を変えることこそ大事」という言葉を聞くと、ムラムラとレジスタンスの意識が立ち昇る。
・・・だがこのことは何も言わない。ただ一言をのぞいて。
「”これでは猫が可哀想、犬が可哀想という思い”と、”法律を変え、それを人々に啓蒙する”。これからは、この二つが両輪となる愛護活動をしていかなくては、百年も二百年も堂々巡りの実状が続きますよ。」


さて、今日、ここで一番言いたかったのは、大石氏のこの言葉にだ。

未知なる出来事への苛立ちに恐怖した結果、
その怒りの矛先がセンターで働く方々に向かってしまうようでは、
僕は情けない。

大石さん、おっしゃる通りです。全ての問題(全ての立場)に通じる普遍の言葉です。
私は、この三十年近く感じ続けてきました。
この大石氏の言葉を自分の立場にかえて言うならば、
昨日までに捨てられていた多くの猫や犬の世話をし終わり、今日もみんなで無事に過ごせた喜びと安堵をもった次の朝、庭にあらたな猫や犬が箱に入れておかれている。その結果、労力、経済の破綻、人々の歪曲を受け、疲労し病み力尽きていく。・・・行政や愛護団体のその責めの矛先が、こうした現実を必死で受け止め苦しむ人々(私)に蔑みとともに向かってしまってきたのは、本当に情けない。


水俣病の原因がわかって、その源の会社を被害者や支援者が攻め立てた時、会社の社長がかわいそうだ、と言った作家がいて、猛反撃をくいました。
犬や猫たちの問題は、当の存在のものたちは何も言わない。
それだけに、私たちは、どこに立つか、試されるんですよね。
・・・でも、これまでのことはもういい。今後は、行政側に立つ者も、徹底的に動物にまみれるものも、対立するのではなく、両輪にならなくてはいけない。これを私は間違わずにみんなと生きていく。そう、生きていく。

ーーーーーこの枠、アニポリさんからの通信ーーーーーー
フリーカメラマン 大石成通(おおいし しげみち)さんの
 セブンデイズ ―殺処分された犬たち―
 3月20日(火曜)発売 週刊朝日にて掲載
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フリーカメラマンの大石成通(おおいし しげみち)さんから、
ご連絡をいただきました。

大石さんがライフワークとして行ってきた「動物管理センター取材」が、
3月20日(火曜)発売の雑誌・週刊朝日
『セブンデイズ ―殺処分された犬たち―』として、
6ページにわたって掲載されることになったそうです。

以下、大石さんからのコメントです。

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掲載する記事は、今から半世紀以上前の夏、
昭和25年8月26日に国策として制定された狂犬病予防法。
それに基づき各都道府県に設置された《犬の抑留所》の現在の姿です。
また、暗く重い沈黙を破り、処分場開放に至った背景には、
動物管理センター関係者の方々の『公開する勇気』が確かにあります。
よく考えて欲しい。
家族間では理解が出来る問題が、
扉の向こうでは誤解されかねない行為かもしれない。

既に、偏見や差別の中で生きて来た彼、彼女たちは、
それを承知で僕の思いを受け止めてくれました。
本掲載記事を目の当たりにし、未知なる出来事への苛立ちに恐怖した結果、
その怒りの矛先がセンターで働く方々に向かってしまうようでは、
僕は情けない。

※ご存知の通り、動物管理センターでは、殺処分を行う管理業務とは別に
動物愛護法]に基づき[ふれあい教室やしつけ教室]など
普及啓発活動を行っています。

近年の社会状況、僕たちのモラル低下とはうらはらに
年間処分頭数が確実に減っている事実は、
彼らが長い時間を掛けて行ってきた地道な努力が
実を結んでいることを意味していると思います。
これは、全ての施設に対して当てはまる答えではないのですが、
人生を掛けて普及啓発活動を行っている人間が1人でもいる限り、
その気持ちに応えたいと僕は思っています。

大石成通(おおいし しげみち)