ニュースより

■ゴミ袋に入れて捨てられていた赤ちゃん
23日は仕事の会議があるので22日から夫はグループホームに泊まりに行く。
それで夕べは、10時からのニュース番組を観たら二階に上がってやるべきことを心置きなくやろうと思っていたのだが、古館さんが番組の冒頭でこのことを報じたのを聞くと、すぐにテレビを消して寝込んでしまった。赤ちゃんは無事のようでそれが救いだが耳に入ったとたん身体中の力がなくなってしまったのだ。
私は体調がまったく悪い。疲労感で常に立っているのがしんどい上に、三日ほど前、体内に決定的何かがおこっているのかな、と考えざるを得ないある事態がおきたぐらいなのだが、このニュースを聴いたとたんもうあかん、という感じになったのだ。


結局やろうと思っていたこともせずパソコンも開かず横になってしまったのだが、生まれた赤ちゃんをこのように捨てる行為を悲しみ怒り、そうした人間を悪としていられない、という思いにもおち、安眠に入ったわけではなかった。・・・私は今、ある種の人間に嫌悪と不信の思いを強くしている。私はその種の人たちが善良風な面の下に巧妙に隠しているもの、あるいは欠落しているものを本当は早くから察知していた。・・・それなのにズラズラと交流を保っていたのは、よくいえば自分のお人よしと気のよさであるが、実際は自分の寂しさがそうしていたことと、その人たちにたかをくくっていた感情があったことで、つまり自分の欺瞞、能無しの故なわけで・・・とそんな自分を思い知ったことも重ねてさまざまな思考をも逡巡させていたのだ。
そうした自分も含めて、赤ちゃんをゴミ袋に入れて捨てる冷酷、非情、薄寒い異常さは、形に出ないだけで本当は蔓延していることではないのか、とも。


今朝起きて、自分が抱えた状況をしっかり受け入れて、人や出来事に真っ直ぐに向いて生きたいとあらためて思い、少し元気な気持を取り戻した。


人に座右の銘は? と訊かれると、『洞察』と答えるのだが、何をどのように洞察するか、に自分の知性や人間性が露になる。要は自分は何をしたのか、何を言ったのか、そう自分は何者かを知ることだ。それができなければ、その人らや自分らは、永遠に愚かな強欲者だ。


■立てこもり事件で命を絶たれた若者
生死を決めるのは神の御心、などとは思えない無念の死を遂げた若者を悼む。