生かされている

闘病中の猫のアイちゃんを膝に抱いて夫とテレビを観ていたら、ドリフターズ加藤茶さんが記者会見をされていた。深刻な病気で手術を受け生還した、ということを告げておられた。
「生かされている、と思いました。」記者に、今の気持は? と訊かれてこう答えられた。
病気や怪我などを克服した人が、よくこの言葉を言われる。言葉というより、真実の想いなのだろう。


私もこの一年の終わりに、この、『生かされているのだ』ということを実感している。
私は芯から『もう人生の幕を降ろしたい』と思いつめていた。
何かに怒るとか、嫌悪を感じるとか、失望するとか・・・そんな間はたいしたことない。言葉で、「もう嫌だ!」とわめいたところで、わめけばケロリとできる段階だ。


だが、何もかもがつまらなくなっていた。日に日に、何もかもどうでもよくなっていた。
全てに疲れきって、自分の心身が、無機質なかさかさした音をたてている感覚があった。。
唯一、人間らしい感情を自覚するのは、暗くなった時間に、森の猫たちに食事を運ぶ時だけだった。
この時、寒さに耐え、森のどこかにひそんで、ごはんにありつくのを待っている猫達のことを思い、私がはこんだ食事をおなかいっぱい食べてそれなりに満たされ元気でいることを感じると、「よかったね。いつまでも元気でいるんだよ〜。」という想いに溢れた。
この一瞬、気持が暖かであった。幸せな実感があった。


でもこの実感は、とても深い寂しさをはこんでくるものでもあった。
自分のいるところをついに見つけられないまま、それでも何とか得ていたその場から、遠く遠く流されていく、いや、もう既にはるかに流されてもはや帰るところがないことを思い知らされているような、孤独感と寂しさであった。
私と暮らす動物たちみんなで、地上でないどこかに本当にいってしまいたい、と結局この想いにいきつくのだった。


今年は疲労感や失意の想いが一層重くなっていて、本当にこれで終わりにするかも知れなかった。
そうしたクリスマスに、夫の兄から一通の封書が届いた。
私を立ち直らせるに充分な心遣いのこもったものであった。


『生かされている』
私でさえも。