「まちの犬」日記 永遠の日々より転載『チャワンたち』

このチャワンは、別名『ムサシ』である。
前左足の先が曲がり、不自由な身体であったが、近隣の人に何度追い立てられようとも戻ってきていた。強い犬だったのだ。筋肉質の立派な体格で、背筋をピンと伸ばして森で私を待っていた姿を、終生忘れることはないだろう。

2003/11/02 (日) チャワンたち

チャワンと呼んだり、ワンちゃんと呼んでいるオス犬がここのところ姿を見せなくなった。二度指導センターがきて、その犬のことを気にしていたので、私は飼い主がいることを話し、帰ってもらったことがあるので、捕獲されてしまったのではないかと気になって仕方がない。しかもその時、電話で捕獲依頼をした人がいると聞いた。私には、犬や猫を捕獲してこのあたりから消してくれ、という人の気持ちはどうにもわからないので、妙な胸騒ぎと不安が高まってくるだけで辛いのである。
チャワンがいつも帰る家を私は知っている。その家の前でくつろいでいる姿もよく見かける。
それで、チャワンの様子を知るためにその家に行ってみた。そこではじめてわかったのである。
今そこの家には誰もいないということが。
私は胸がふさがれるようであった。何か事情があってその家の人たちはどこかに引っ越され、チャワンを置いて行かれたのであるらしいのだ。ただ食事は私が行く森に来てたらふく食べていたから飢えることはなかった。でもどんなに寂しく不安であったことだろう。
そのチャワンを捕獲しろと言う人がいるのだ。今姿をみせないチャワンは、その人たちの手にかかってしまったのだろうか・・・。

私の家の敷地は狭く、多くの動物と療養中の夫がいる中、経済も困窮の一途をたどっている今、こういうことが起こるたびに、自分の無力がただただ悲しく辛い。
本当に思う。もしも私の命でよければ、そして私の命と引き換えに、世界の生き物たちがみんな、自分の生を悠々と生きられると神が約束して下さるなら、喜んで差し出そうと。
これは、人間はどうでもいいということではない。人間のことは他のみんなが考えているではないか。一人ぐらい、動物たちのために自分の全てを投げ出そうという人間がいてもいいではないか、ということなのである。
だが、今、夫や自分の家族になっている動物が多くいる、とう現実の中では、一日一日自分の責任を果たすのがやっとでしかなく、どんなに思っても本当に無力な自分である。
時々、こうしたジレンマの苦しみに耐えられなくなることがある。
そういう時の寂しさはどうしようもない。