いまだ続く坂東真砂子さん「ファシズム」

前のブログに、いつも熱血のコメントを下さるみけさんから、仔猫崖下事件の坂東真砂子さんが、いまだに週刊誌等にあの件にまつわるエッセイを出しておられるという書き込みがあった。
こうである。↓ この文章に続けて、これに対するみけさんの思いと考えが書かれている。それを読みたい方は、
http://d.hatena.ne.jp/kazesk/ のコメント氏名の枠から「みけ」さんをクリックして下さい。

坂東さんの話はもうやめたいのですが、彼女は最近も週刊朝日(06年1/15‐12合併号)や文藝春秋06年12月号などで社会の反応を「ファシズム」、「中傷と攻撃」、「(動物と共に暮らすというのは)人間と獣は仲良く暮らす事ができるんだという自他共に向けてのデモンストレーション」、そして崖に取り残された犬の救出事案についても、「犬の救助を喜んだ人々は弱い愚かな獣は死ぬ運命にあるという自然の有様を見なくて済んだ事に安堵したのだ。」と書いています

私も坂東さんのことはもういいのだが、ちょっとだけ。
誰かの何かの言動に対する社会や周りの人々の群れを成した、あるいは強い側の意図に添っての攻撃を、「ファシズム」と感じることは私もある。
例えば、イラクに行ってテロリストに捕まった三人の若者へのバッシング、亀田親子への嘲笑、ごく最近では、広島ドッグパーク事件のアークエンジェルスの代表への詐欺呼ばわりなど、「ファシズムだワ」と思ったものだ。
でも、どういうものか、坂東さんへの抗議を、「ファシズム」とは思わなかった。自分が怒る方にいたからかもしれないが、彼女への抗議は、崖下に投げ捨てられる仔猫と母猫を悼む素朴な気持が激情になった、と思えるのだ。なぜ素朴な思いが激情になったかというと、坂東さんの自分を絶対的に”正”、あるいは、”優”の位置につけたい論理の展開があったからだ。(私にはあの坂東さんの一連の言い分はそのように感じた。)
ファシズム」と、「個人個人の魂の怒り」は、違いますからね。
自分への抗議を、「ファシズム」としてしまいというのは何と言うのだろう。しかもマスコミを味方につけてだからこれはフィシズム以上の意味があるんじゃないかな。そう思えてならない。
自分と自分が認める者以外は無能者と見下して封じようという根性にも見える。多分これは無意識なんでしょう。坂東さんに限らず、自分を賢い人や特別の人と勘違いする人間はこの無意識に支えられているって気がする。どこの世界にもいる。


それから崖から救出された犬に関しての坂東さんの論理、「犬の救助を喜んだ人々は弱い愚かな獣は死ぬ運命にあるという自然の有様を見なくて済んだ事に安堵したのだ。」も、一見その通りと言いたい明確さがあります。
でもやっぱこれにも、私はちょっとだけ異論を言いたい。(ファシズムになるかな?)
弱い愚かな獣は死しかないのは、たしかなことでしょう。坂東さんの言い分の通りです。
だけど、人間は違うんですね。弱い愚かな獣が、何らかの受難にあっているところにいき合わせたら、助けるんですよ。これも自然の有様なんです。
わかるかな? 人間はこのように善だ、良心的だ、情け深いんだ、なんてことを言ってるんじゃないんですよ。


註:根性が悪いといえば、私もだんだんそうなっていく。最近、顔はニコニコしていながら、『こいつ、バッカじゃないの』『ほうほう、よく言うよ』『この人のようなタイプ、何の皮をかぶってる、というのかしらん』など腹で言ってるもんね。でもこれ、不思議なことに、逆もあるんだ。「世界がこの人を悪く言っても私はそうじゃない。」ということがピーンと来る。また他者のある種の痛みにこれまでになく敏感であったり、感謝するべき人への感謝の思いが深くなるなど・・・。
それから、この世に渡したロープを高下駄で歩いているようなそんな感じも。


註2:2007/5/15 意味は全く変わりませんが、この記事の中で言い回しを少し変えたところがあります。