今朝の雑感

■言葉
言葉は日常的で空気のように当たり前に慣れているものだけど、他者に伝えるのは結構難しい。発している自分も、受けている相手も、それぞれ自分の感覚や理解を当然として、言い、聴いているからだ。


自分を無にして、相手の表情や言葉そのものに胸を開いていれば、相手が何を言いたいのかたいていわかるに違いない。なのに、それを誰もがしなくなった。なぜだろう? それは、相手そのものが自分にとって何の価値も必要もなくなっているからだ。少なくとも、相手の”真実”を知ることに対しての価値、必要が。


それは、言葉を失った、と同じくらい、いえそれ以上の悲しみのことなんだよね。


■言葉2
私は言葉をどのように使っているだろう。・・・ふとこう問うて思うのだけど、殆どは自分を飾るために使っているんだよね。寂しいね。
でも、ほんのわずかだけど、天に真っ直ぐに発した言葉がある。・・・だから、生きていける。


■臓器提供
昨年、宇和島市の万波医師の臓器移植手術が問題になり騒がれた。
私は、臓器移植は反対の気持をずうっと持っているのだけど、この時のさまざまな騒動から、今思っていることがある。「自分が死んだら、臓器を提供することの手続きをしておこうかな」と。私の臓器は疲れ切ってボロボロの雑巾のようになっているかもしれないけれど、必要な誰かの役に立つのなら・・・と。


なぜこのように思うようになったか。
万波医師は、本当に、お金や栄達のために移植をしてきた人ではないこと。菅野雪虫さん作「天山の巫女ソニン」の中の言葉を借りて言えば、「万波医師は、人間の幸福のために、それをすることを神から選ばれた人」なのだということ。・・・そして、万波医師は、そのことに奢らず、純朴な思いのまま自分のやるべきことを果たしてきた人なのだ、ということ。これらがわかったからだ。誰かに訊いてわかったのではない。私自身が感じ取ったのだ。
それと、万波医師が疑惑とバッシングの嵐に襲われた時、自分の全てを投げ打つようにして、この医師を助けようとされたN氏がおられたからだ。この人のこの行為に、私は救われた。人間の義や尊さの前に泣いてしまったよ。


こうして、臓器移植の提供をすることに決めた。
だが、ひとつ、条件がある。
私が死んで、私の臓器が取り出される時がきた時、かならず、この三つを社会に伝えて欲しい。
「私の臓器が、人間の誰かの命を救う役に立つために、星の数以上の動物達が、”実験”というこれ以上の苦痛はない苦痛を強いられ、あげく命を奪われているのです。どうか、このことを忘れないで下さい。」
「私達が、医学の恩恵を得て健康に長生きしていることは、当然のことではないのです。誰も思い出すこともない生き物たちの犠牲の上に立っている。生涯のうち一回でいい、彼らを悼み、彼らに、感謝の祈りを捧げて下さい。」
「それから、臓器移植が、子供や大人を拉致し臓器をとるという恐ろしい犯罪に結びつかないことを心から祈っています。」