差別

昨夜はいつものことだがドラマを観ている間もグダグダに眠くてならず、結局夫を就床させて後三時間ほど横になる。後、のんびるブログの更新をするのに起きてせっせと記事を書く。写真も13枚ほど入れ、あと独言の一行で完了、というところで魔がさした。ふとあるリンクをはっておこうと思ったのだ。思ったことは、魔がさした、ことにはならないのだが、画面を縮小しておくはずだったのが×を押してしまったのだ。これを魔がさした、といわずして何という。
数時間の苦労が水の泡である。履歴を出すなどなんか救済の手があるはずだとあれこれ考えたりいじったりしたけれど私の知識ではどうにもならない。
結局、最初からやり直し。最初の記事に比べたらテンションも内容も数段下がってしまった。本当に根性のない私だ。トホホホなどと書くのもムナクソワルイ。


そこで、気を取り直そうと、ブログ探訪。すると、「差別」にまつわる議論というかケンカというか、ノノシリアイというか・・・いろいろな人がワァワァ言い合ってる感じのはてなのエリアがあった。


うーん、差別かぁ。・・・差別ってどういうことを言うんだろう。
自分の場合の自分が差別された、と思う時を考えてみた。
私の家は、他人が捨てにくる猫や犬がたくさんいて、結果、家の内外が手がつけられないくらいの惨状なのだが、そのことでしばしば、人から失礼に感じる態度や言動をくらうことがあって、私はその時、「差別された」と思うことがある。・・・でも、本当は、差別された、と思っていないんだよね。「これだけ汚なきゃ、人に寄ったら中傷したり、イヤミ言ったり、いじめたくもなるかな」と思っているのが本音だ。
でも、町内会の地区役員が、うちを仲間はずれにすると、「差別だ! それはダメでしょ!」とはっきり思うし、そう主張して役員の心得違いをさとす(怒る)ことがある。


「○○のくせに」という言い方は差別心から出ると言っていいことがある気がする。
女のくせに、子供のくせに、年寄りのくせに、痴呆のくせに、貧乏人のくせに、売れない作家のくせに・・・どれも不快だ。自分に言われるとやっぱり「差別!」と返すことがある。


でも、自分もよく言っている。政治家のくせに、教師のくせに、坊主のくせに、会長のくせになどなど。・・・でもこの場合は、誰も、こう言った者を、「差別した」とは抗議しない。
これがもし、別の仕事なり身分の人に対して、○○のくせに、と言うとしたら抗議がくるだろう。・・・これに対して、「別の仕事なり身分の人ってどういう?」と疑問に思う方は差別感覚がない人の一人だと思う。少なくとも私に比べれば。
そこでここのところでの自分の場合をもうひとつ考えると、政治家でも教師でも坊主でも、あるいは職のない人でも何でも、そうした枠そのものを、○○のくせに、と言うわけじゃない。同じ政治家でも別の職業の人でも、ひっくるめてはどうこう言わない。あくまで、問題を感じたその人その人にだ。


やめよう。こんなこと書くだけ、自身の差別心を思い知る。政治家や教師ははっきり書いて、別の職業、とぼかすところに差別心が根底にある証拠だし警戒しているのだ。・・・そうなのよ、ここなのよ。私が犬や猫まみれになっていることを差別されてる! と感じる時って、良識ぶった人の明らかな触るまい警戒心を感じた時なのよね。(笑)


ここに書いた部分は削除した。
もう少し整理して書き直すべきと思ったからだ。


そこで、私にとっての差別だけど、自分の中の混沌としたもの、特に嘘や虚飾をひとつづ見定めて正直になっていくと、自然になくなっていく気がする。差別だけではなく、自分の中にわいて出るものも勿論、他者から受ける妬みや嫉妬というものからも解放される。
これからの人生の希望はここにある、と確信している。
あれ? なんか綺麗ごとにまとめちゃったね!