差別論争2

下に書いた「差別」の続き。今朝もまだ差別論争が続いていた。ちらっと読んだだけだけど、差別など人権問題って、侮蔑と言う差別で傷ついた当の本人と、自分は何も傷つかず安全な位置にいる知識は豊富で意識はリベラルな人間が何人かかっても決定的な空疎な溝を感じるね。なぜ、みんな、”当の本人”に心を開いて言葉を聞かないんだろう。それをするのが怖いんだろうね。だって、充分差別や人権問題を語れるだけの知識を持っているリベラルな自信家は本当は何も知っちゃいないんだから。それがどんなに小さいことと思うものであっても、当の本人にはそうではない。そこに心を開いてそれを命がけで知ろうとしなきゃ、当の本人の足下にとうてい及ばない。どんなに豊富な言葉を駆使してもね。
今の日本の(世界かも)文化も教育も芸術も政治もなにもかも、当の本人の足下にも及ばないところで完結させようとしているものね。貧しいということはそういうこと。


で、当の本人は、そんなリベラリストの豊富な言葉の傘に逃げ込んじゃだめだぜィ。(ま、いいけど。私の問題じゃないし)


私は、動物との関係において、いつも↑に書いたようなことを感じる。動物は当の本人なのに何も言わない。その前にいてうな垂れるだけよ。
一部の愛護運動家が大っ大っ大っ嫌いなのは、そうした動物を私物化した考えのもとで、自分の思想こそを絶対にしているから。・・・でも、これにもあんまり苛立ちたくない。当の本人が何も言わずに全てを受け入れてるのに、なんで私のようなトントンチキチキがエラソーなこと言うんだ?! ほんとに私はインチキだ。
少し、静かにする修業をして少しはマシになろう。そうじゃなくちゃこのまま死んで行くんだゾ。