病院での出来事

27日は隣りの市の病院に行く。夫の検診日だった。
検診後会計の番が来るのを待っている間に、夫をトイレに。トイレはレントゲン室の手前を右に曲がるのだが、この時、レントゲンを待っているらしい看護士さんに付き添われた車椅子の高齢の女性のわきを通った。
ちょうど別の看護士さんが通りかかり、車椅子の女性を見て、その後付き添っていた看護士さんに、「どうしたの?家族の人は?」と訊いた。
私は見るともなく車椅子の女性の顔を見た。右の目のあたりを中心に青く腫れ上がっている。見るからに痛々しい形相だ。訊いた看護士さんは、こんなひどい怪我をしているのに、家族の人の付き添いがないの? という意味の問いだとわかった。
それに対して付き添っていた看護士さんが、「忙しいんだって・・・」と答えた。『ひどいわよね〜』と家族への非難と見くだしのような気持のこもったひびきがそこにあった。
その直後である。車椅子の高齢の女性が、いきなり大声を発して、車椅子をガタガタと揺らして暴れ始めたのである。私は二人の看護士さんのなだめる声を背にしながら夫を促して急いでそこを去った。


この時思ったのである。
「どうしたの?」と訊いた看護士の問いが、同僚に向かってではなく、当のおばあさんに直接向けられるか、答えた看護士の言葉が、「ころんだんですって。家族の人は仕事の都合で付き添う時間がとれなくて、心配そうだったんだけど、私が付き添うから大丈夫だって、出かけてもらったのよ」などときっぱりと状況を説明すれば、このあばあさんはあんなに苛立つことはなかったのではないか、と。


おもうに人間というのは、こうした時、裁定者の視線を持ちやすい。
確かに家族の誰かが突然怪我をしたら、仕事を放り出してでも病院に付き添うのは当然のことだろう。でも命には別状がないとわかった時、仕事の方を捨てられないと判断せざるをえない場合もあるのも当然のことなのだ。
そう、人は、万人に気にいられるようにできない状況に立たされることもあり、そういう時、咄嗟の判断やとった事態が、他者からは顔をしかめられるようにしてしまうこともあるということだ。
そういう時、その人に、裁定者の視線をもってみるか、何か事情があったんだろう、という視線で見るかは見る側の度量を表わし、また当事者の心を傷つけるか平安にするかにもなるのだ。


私は、近隣や夫の介護の施設で、常にこの裁定者の視線に晒されてる、と感じている。近隣や施設に限らない。友達と思っていた人からも何か知らず実は裁定されているんだ、と知ることがある。そこに生じる寂しさと疲労は結構重いものがある。・・・が、この微妙な問題はなかなか難しい。当事者は気にしないようにするしかないのである。実際、相手の問題ですからね。トホホホですけどね。(笑)


さて、世間はゴールデンウイーク真っ只中! そして今日もいいお日和です。
元気でいい一日に致しましょう。