あることを調べようと、自分の過去の日記を開いて読み直している。
何年も形の変わらぬものを書いているなぁ、と自分の稚拙さをあらためて感じたりしているが、それでも時間の経った中で、自分が少しづつ変わってきているかな、と思うものもある。
いいか悪いかはわからないが、ふっきるものはふっきれるようになっている、という認識である。


そして、他者にはわからない自分自身の過酷な事情の中で、私だからこうして頑張ってきたな、という思いも持つのだ。・・・こう感じると、涙がわく。実際過酷であったし今もそうだ。単に介護が大変だとか、猫や犬が捨てられ続ける、その数の多さ、世話が大変、ということではない。多分、私でない人ならとっくに押しつぶされているだろう。・・・こう言ってしまうと自分をよくいう独善やウヌボレのようであるがそうではない。私だからできた、できる、というものを私は持っている、ということだ。わかってもらおうなど思わないが。


と、いささか世間に挑戦的な視線を向ける部分も自覚するが、そうでない部分では、保存してある昔の日記や掲示板を読み直していると、コメントを通して、たくさんの友人や、ネットで知り合った方々の親身な気持ちを今更ながら感じて、それらを読み直しながら、感謝で、涙がぽやぽたとおちてくる。号泣すらしてしまった。


それでも私の心(魂)を、人から離れていこうとさせるのは、私が守ろうとほんとうにほんとうに力を振り絞った猫たちや犬たちにまつわる、この世の寂しさがどうしようもなく深いからだ。
このことにおいても傷は、友人や知り合った人々がどのように温かく優しくあろうと、私の痛みを癒すことはできない。それほど痛み続けてきた。
ワンタがいなくなったことで、私はこのことを思い知った。
ワンタがやっと立ち上がれるようになったこの日、私はワンタを見失い、そして近所のある人に遠くに捨てられてしまった・・・むごすぎる。
私は、今、激しい悔いと悲しみにいる、この悔いと悲しみが、どんなに人に感謝と親しみを思うとも、人から、世間から離れて行って消えてしまおうという気持にひっぱるのだ。
そうならないように懸命に闘っている。