昨日の出来事から

私は方々に届けてワンタという犬を探しているのだが、ワンタらしい犬がいるという通報があり、結局それは間違いであったとわかったのだが、この経緯が想像以上に自分に傷を負わせた、と時間が経つごとに感じている。
ワンタではなかったという落胆も大きかったが、それも含めて、自分が本当に本当に普通ではない辛苦を耐え、頑張ってきて、もうあとは奈落に沈むだけになっていることの実感だ。


このような中でも私は、通報してきた人が話すその犬の哀れな様と、その方がアパートだから飼えないという言葉に、「私がその犬を引き取りましょう」と言ってしまったのだ。おそらくその人の何倍も私の方がもはや命と引き換えにするくらい飼えない状況であるだろうのに・・・。
こうやって、このような人生の終わりの時期を迎えてきてしまったことを思うと、悔恨などという言葉などではあらわせられない苦渋にあらためて堕ちていきそうだ。
この方と、犬は茨城動物指導センターに捕獲を頼んでそれから私に、と話し合ったので、茨城動物指導センターにその旨電話をしたのだが、後で指導センターの保護担当の方から電話が来て、私の家の状況は犬を飼育するに適さないから渡せない、と言う。
・・・そうなのだった。私の家の犬たちは現在は登録もさせていない。そう出来なくなっているほど状況が劣化しているのだ。・・・このことを思い知って、ひどくひどくひどく自分が情けなくなったのである。なんという人生にしてしまった、と何度も何度も自分に呻いた。


この経緯をワンタと思って通報して下さった方に、指導センターから電話が来た後にお詫びのメールを送ったのだが返信が今もない。私がいいかげんな約束をしたと怒っておられるのだろうか、と思って、またひどく落ち込んだ。


と、昨日は尚のこと重い一日だったが、ひとつ救いのように感じたことがあった。
茨城県動物指導センターの人の意識である。
私は、電話で、指導センターの方が、「Sさん、あなたが背負うのはもう無理だ、もう背負ってはならない」と言われた時、『ああ、この人は、私の背負ってきた全部・・・犬や猫の命と人々の身勝手の重さをよくわかっているのだな。わかる人は、これまで宿敵と思ってつっぱってつっぱって対峙してきた、実際に犬や猫たちを”殺処分”している人だけだったのだ・・・』と感じ、電話を切った後号泣した。以前にもこの感覚は、埼玉の鴻巣保健所の人と話していた(口論)時に感じたことがあった。


今日は、のんびるの編集会議で都心まで出かける。本当なら心弾む日であるが、ここのところの気の重さと昨日のことで心は鉛が張り付いているかのように暗い。
でも行けばきっと、元気が取り戻せる。行くぞ!


これを書いた後、前述の方からメールが来ていたのに気づいた。
この方は、このようによくわかって下さり、私を怒ってなどいなかったのだ。
何と私はひねくれた冷たい意地悪な受け取り方をしたんだろう。恥ずかしさでいっぱいです。
Fさん、ごめんなさい! そして、このようにお優しいメールをありがとうございます! 心から感謝します。

いいえ、ご事情お察しします。
こちらこそ佐々木さんの優しさにすがろうとしてしまいました。
ごめんなさい。
わんちゃんの生命力を信じて、様子をみようと思います。
何週間も前から見かけていて、でも生きているってことは
どこかでご飯をもらっているかもしれません。
田舎なので土地柄、首輪をつけていない子もいるそうですし。
歩き方も、前に見たときよりも良くなっている感じでした。

ワンタ君もきっと佐々木さんのようなお優しい方に可愛がられているような気がしますよ(*^_^*)
ワンタ君は和恵さんのこと忘れないし、どこかで和恵さんの幸せを願っていると思います。
ご主人さまとワンちゃんたちとどうぞお幸せで(^O^)/