テレビ報道から

バージニア工科大学の事件
フジの夜10時からの報道番組で、あの事件の最中に、教授や学生が互いを助けようと懸命に闘ったことを追った特集をやっていた。闘ったといっても学生や教授は素手で、迫り来る犯人に向かい合ったのだ。
どんなに怖かっただろう、助かりたかっただろう、無念だっただろうと、観ていると涙がじわじわじわじわ出て仕方がなかった。
その一方で、犯人の学生はなぜ、自分の人と違うものを克服できなかったか、とそのことも苦しく思った。
精神医学の関係者の殆どが、彼が病理であったと言い切っているが、それでも何かが変わればそれを克服できる可能性はあるのではないかと思えてならないのだ。
不幸な自殺があると、人の多くは、「死んでいい命なんかない、生きて欲しかった」と言うが、少数派の人間が死なざるを得ないほど追い詰められると感じる、そうした世間を作ってしまうのも人なのだ。


風力発電
昼間のTBSの番組で、環境をよくしていこうと風力発電化をすすめている町の様子を追っていた。山の木々を切り倒し、山の峰に高くそびえる風車を造ろうとしているが、それによっておこる環境破壊、外観破壊。・・・もはやこうしたことを非難できる人は誰もいないほど現代人は環境破壊によってできた便利さの恩恵をこうむっているのだが・・・。


東国原知事は稚拙?
定例記者会見で、東国原知事が記者と対立しているところをチラと観た。東国原知事が、「こんな定例記者会見て必要と思います?」と記者に訊いたら、記者が、「その質問を自分達にするのは稚拙だ。」と言っていた。
東国原知事は、これまで誰もこだわっていなかったことをこだわるところがある。記者たちはそうした知事の傾向を”稚拙”などととっているのだろう。記者だけではない。きっと、自分は賢い、と思い込んでいる人の多くがそうなのではないかしん。(宮崎県民の80%以上の人が東国原知事を支持しているそうだけども・・・)
私は、東国原知事がこだわるものは大事な点だと感じている。この人は人類の救世主の一人か、と思うくらい、彼のこだわりの点は大事だ。そこを無視して今の社会や世間を作ってきたオトナが、人間の”個”をなきものにし、強いもの、暮らしぶりのいいものの”声”を正としてきてしまったのだ。
この知事は、そこの悪弊を知る人に違いない。・・・だが、人は本物の”正義”を嫌うものだ。いつか、ちょっとした彼の何らかの癖をもって、地におとすようになるのではないかと、それが心配だ。そうならないことを祈っている。(心配症だ、私は)