別ブログからの転載

私はテレサ・テンさんのファンでも何でもないのだが、夕べのドラマの安っぽい作りに本当に、「テレサ・テンに失礼だ!」と思うものがおこってならず、別ブログでもう少しはっきりと感想を書いた。それをここにももってきた。

[感想]ドラマ/冒涜ではないか「テレサ・テン物語
私の家は山の向こう テレサ・テン物語はただただ「こんなドラマにされてテレサ・テンさんが気の毒だ」という想いにいっぱいになった。
私はテレサ・テンさんが、歌手として素晴らしい才能のある人、という以外何も知らない。だからこのようなことを思うのは僭越なのだが、それでも一言あのドラマには落胆したことを言いたいと思う。


彼女をあのピエールという愚かなフランス人の青年にすがらせるように追い詰めたのは、本当に中国の国の事情であろうか? 彼女が民主化運動に参加されていたのは当時のニュースなどでもわかっていたが、あれは彼女の確たる意識がそうさせたのではなく、彼女の人がらの善良さ、純粋さがあのような成り行きにあがらわなかった結果のような気がするのだ。

それはドラマでも匂わせていて、「私はただ歌を歌いたいの」というセリフにも表れていたが、何か彼女の人間性の中心を害し、彼女の自信や生きる力をそいでいったいやなものを封じた描き方に終始し、それが結局、ドラマを運命に翻弄された一人の歌姫的な安っぽい仕上がりにしていたと感じた。そのことが、テレサ・テンさんに随分失礼ではないかと悲しくさえあった。


世事的な要素をもたない真に人柄が善良な彼女を痛め付けたのは日本の社会、日本人の体質ではないかと私は思ったのだ。そこはいっさい描かれていず、むしろ国の問題で苦悩する彼女を支えていたのは”日本人の良心”であるかのように描かれていた。この欺瞞が全てと言っていいドラマになっていたのだと思う。そのことにおいて、テレサ・テンさんを冒涜しているとすら思った。


残念だが日本人は、彼女が自分の才能や美しさや賢明さで得た、彼女の正当なもの(人気や名誉や財など)を認めず、彼女がいかにも正当でないやり方で得たような汚名を着せていったであろうことを私は想像する。

それは私程度のささやかなレベルのものですら巻き込まれることがあるからだ。

こうした日本特有(他国にもこういうことはあるのだろうが)の偏狭から、彼女を守る人はいなかったのではないか、なぜなら、殆どの人がこうした習性を持っているからだ。テレサ・テンはどんなに自分が不当に貶められ、低められていくことを苦しく思われたことだろう。それに強く抵抗したり、怒れば、日本人を嫉妬し、妬んでいる、と決め付けられただろう。日本人の多くこそ、彼女を嫉妬し、妬んでの言動があっただろうに。しかもそれをおくびにも出さず彼女を低め低めていっただろう。多数の中でこうした雰囲気が作られたら反論をする機会すらなくなる。何しろ、心を開いて聴こうとする人はいないのだから。こんな気持が悪く辛いことはない。


私は人間というものは、思想上や仕事の上の対立には、それがどれほど厳しいものであっても、生きる力や自信を失うには至らないと確信している。そうした対立に対しては、むしろ、自分の信念を強め、より堂々と対するものではないか、あるいは退いたとしても、自分の人間性を失う質にはならないはずだ。

だが、正当な自分の権利、あるいは自分の持っているものを、反論のできにくい形で巧妙に歪められていくと、自信や生きる力を失うことにつながると身を持って感じている。

この時、その人を守るのに絶対必要なことは、あくまでその人の正当性を信じる、ということを示していくことしかないのだ。ここの潔さ、強さ、爽快さが日本人にはない気がする。常に自分が安全かつ得をする位置に置いておきたい人が多いからだ。


・・・などエラソーなことを書いたが、テレサ・テンがどうであったかは本当のところはわからない。
だが、夕べのドラマが、”日本人の良心”という姿を前面に出した描き方をしていたことで、安っぽくくだらないものに終わっていたことだけは事実だろう。

テレサ・テンさんのご冥福をあらためてお祈りします。