慈愛の人々 藤田美千子さん

今朝、目覚めて、「私にはやるべきことがあった」と思った。
そう、このブログでグチやボヤキやモンクを書き連ねているのはもうとっくに卒業しなくてはいけなかった。
私にしか書けないものがある。ひとつは、動物(身近な)問題のことだ。私の視点の。
いつまでグダグダとこうしている! と天から叱られたような気がする。


そう思うと同時に、「それはまず、藤田さんのことを書かねばならない」と思った。このとは大分前からわかっていた。藤田美千子、動物愛護の祖のような人。行政、多くの愛護団体、獣医師会、市井の人々から、蹴られ、罵倒され、唾を吐かれ、あらゆる中傷誹謗をされても、決して揺るがず、何千匹もの犬や猫を守った人だ。
その数に彼女の凄さを言うのではない。どんな妨害があろうと、ずらさずぶらさず揺るがなかった彼女の魂に、私は生涯の敬意を捧げたいのである。
ずうっとそう思い続けていた。


やっと彼女を書く決心がついた。早速今朝、そこに電話をしたが今は使われていなかった。
役場で訊いてみると、藤田さんは体調を悪くされているという。でも別の方が志を引き継いで犬達の世話をされているという。役場の方が、私に、「あたくはどのような用件で?」と訊かれたので、私は、「長年支援の気持を抱いてきた者ですが、ここ何年か通信が来ないので心配になって」と、私が一番に気にしていることを言ったら、その方は、「ありがとうございます」と親身に言われた。その言葉を聞いた瞬間、もう涙が溢れた。何年か前、役場の人は、彼女のことをそれはもうひどい言い方をしていたからだ。
今は彼女のことをこうして労わっておられる、と思ったのだ。


藤田さんは病に伏していらっしゃるのか。思えば私より年上の方だったと思うからある程度のご高齢であろう。
今、会わなくては! とヒリヒリするような気持で思った。
私なら書ける。藤田さんの思いを真っ直ぐに。私の魂にかけて、神に誓って書かねばならない。
勿論、「動物の命」ということを限定にしたしばしば甘ったるい自己慰撫のようともとれる主張などではなく、多くの犬、猫を守り通した、その魂そのものと、その魂がみた「世界」を描きたいのだ。


その前に、私がサイトで書いている藤田さんのことをここに出しておこうと思う。

藤田 美千子さん2005/4/30
かじゅこ松島さんのページで書いた、都庁での座り込みの最中のことである。
私はそこで会った人から、モノスゴーイことを耳にした。
それは、”捨てられたり、連れてこられる犬を1000匹引き取って育てている人がいる”ということだった。(まさか! いくらなんでも1000匹なんて、あり得ないでしょう!!!???
どうやって世話をしてるの??? ケージに押し込めているなら保護じゃなくて虐待よ???)私にいくつも!!!と???を書かせた人が、今回これから紹介しようとしている藤田美千子さんなのである。


この日からかなり日が経って、私は座り込みの時に知り合ったO・J子さんという人に強引に誘われて、O氏という知る人ぞ知る人が代表になっておられたある愛護団体の会に出た。
ここに、かの藤田さんが出席されたのである。
私は、(1000匹の人だ!)と興味津々で彼女を見た。
藤田さんは、同行の女性と何も発言されることなく黙って会が進む中におられた。
最後に、O氏が藤田さんに発言を求められ、彼女はやっと立ち上がり短くこう言われた。
「私は今日、ここに来たのは、ひどい目にあい続けている犬たちが助かる何かがあるのなら、と思ってです。でも、今日の皆さんの発言は、私にはさっぱりわかりませんでした。これなら、貴重な時間をあの子たちの世話をしてやっている方がよかった。」


これを聞いた瞬間、私の疑念は消えた。(この人は、1000匹の犬を助け、ケージにとじこめてなどではない世話の仕方をされているだろう。)と感じたのである。
ちなみにこの日の会は、もともとの発想は、虐げられている動物たちや救うために苦労している人を助けよう、というものであったと思うのだが、司会者の方が実状をよくわかっていない人だったせいか、参加者がてんでに、自分の活動こそ正しい、あれはだめだ、こっちはいけない、と言い合うような展開になったのである。私なども呆然としていた。


次に藤田さんの名前を見たのは、これから二年後ぐらいだったろうか。新聞に、藤田さんが動物の保護に経済的に行き詰まり、”犬や猫をみんな殺して自分も死ぬ”と言われているという記事が出たのだ。
私はこの頃、家においていかれ、日々増える猫の世話に追われていて、息子は学校でいじめにあい、私自身も周りから見下されるようになり、自分の存在に自信をなくしていっている時で、毎日を鬱々と過ごしていた時だったのだが、この藤田さんの記事を読んで動き出したのである。
”この人を死なせてはいけない!”


動いたといっても、私自身は、わずかのカンパをするぐらいの力しかなく、どうしようもなかった。
それで必死に、つてをたよって動物保護団体に助けを求めたのである。
この時、多くの人の口は、藤田さんを誹った。「貰い手探しをしないから悪い」「私が協力を申し出たら、偽善者の協力はいらないと言った。今の苦境は自業自得」などという言葉で。
前述のO・J子さんは、あれから何かと私に近づいてきていた人だったが、私が藤田さんを助けてあげるにはどうしたらいいかと相談したら、「あの人は自分の家は綺麗にして、息子さんたちにもいい暮らしをさせている。寄付をそれに使っている。」と言った意味のことを言い立てた。
明らかに私に藤田さんに反発させようという意図だ。


「いいじゃない。自分の家庭をきちんと守ってやっておられるとしたら、それは藤田さんの有能さを顕しているだけよ。カンパの私用は真実かどうかわからないことでしょ。そんなことを言い立てて、人を卑しめようとするあなたに失望した。」と私は返した。
余談だが、後に私は彼女から、身に覚えのない中傷のなたを振りかざされたもんだ。多分この傷跡は私にではなく、別のところに今も残っていると思う。嫌な気持ちの悪い時代だった。
私は真っ向から攻められることには強いのだが、形が見えない形で押し寄せられると、なすすべがなくなる。私が壊れはじめたのはこのあたりからだった。
今思うと、みんな動物の生命を守りたい一心だったのだとわかる。それだけ、動物たちをひどい目にあわせる人が多かったということだ。今もそれが変わらないというのは悲しい。


藤田さんに戻ろう。私が無能をさらしてうろうろしている間に、藤田さんは救われた。
フランスの愛護団体(この頃、フランス政府と聞いていたが、真実はわからない)が、トラック何台ものフードを運び、のちのち彼女を支援すると約束したのだ。
この時、「日本人は最低だ。無責任な人間が捨て去った動物の生命を守ろうとしておぼれかけている人を、よってたかって足で蹴飛ばしてなお溺れさせようとしている」とフランス人の記者が言ったそうである。
藤田さんの問題の記者会見があって、そこに出ていたという人から私は聞いた。
私はうなだれたものである。自分が何もできなかったことに。
今も肝心なことは何もできない私である。つまらないことに力やお金を無駄遣いし、肝心なときには何の力も残っていないという自分のありようが本当に情けない。


などという自己批判はともかく、藤田さんをフランスが支援続けていたのは事実である。
現在まで続いているかどうかはわからないが。


これから尚二年ほど経っていただろうか。
私はたまたまつけていたラジオで、千葉県の猟友会が、野良犬をトラック三台分殺した、というニュースを聞き、この頃は誰に乞われても絶対活動のようなことはしないし、どんな会にも出ないと決めていたのだが、ニュースの内容の無残さに黙っていることができない気持ちに突き動かされ、当時の道路で片道七時間かかるその千葉の町に調査に行ったのである。
町や県の行政は勿論、猟友会の会長というさる有名な元国会議員氏の”子分”のような国会議員氏のお宅にも乗り込み、犬たちがどこに埋められているかを突き止めようとしたりした。


調査は数度にわたり、ある日、山で子犬を二匹かかえた母犬に会い、このまま放っては置けないと、私は車に乗せたのである。
だがこの日、どうしても山の奥に入っているという猟友会の人に会って直接話を聞きたいと思っていて、犬たちには長時間の車は負担だろうと思いあぐね、地図を見てみると、藤田さんのお宅が近いことに気づき、彼女に一時預けようと思いついたのである。


人家を少し離れた、川べりに沿って、長い大きな犬舎らしい建物が見え、私がそこに向かって川土手を走っていると、私の車に気づいた犬たちがいっせいに吼え始めた。
私はその声を聞きながら近づいているうちに、涙が出てどうしようもなかった。
『私たちが、身勝手な人々が、この人にこの惨たる重荷を背負わせているのだ・・・!』


惨たる、と書いたからと言って、犬たちが惨状にあってるという意味ではない。
犬舎は、清潔さを保たれ、日当たりや風が通ることを計算して作られ、特に藤田さんを見て、懸命に尻尾をふって甘えるさまは、彼女の愛情がいかに行き届いているかを証していた。
だが、どんなに心を尽くし、世話が行き届いていたとしても、1000匹の犬を一人の若くない女性が背負っているというのは、心を尽くし、世話が行き届いているからこそ惨たる”事実”ではないか!


私は衝撃で気が遠くなりそうなのを、懸命にこらえて、事情を話し、必ず迎えにきますから預かってほしいと言った。
藤田さんは「わかりました」と答え、ボランティアの人に指示して三匹を犬舎に入れた。
車に乗って、発車させようとした時、藤田さんが私の顔に自分の顔をつけるようにして言われた。
「ここに一度入った子は、二度と出しません。私が命をかけてあの子達を守ります。」
多分、藤田さんは、一気に蒼白になった私の顔を見ただろう。
私は、「いえ、そういうつもりで預けたわけではないので。後に来ます。」と言ってそこを出た。


三日後、私は犬たちを迎えに行った。
藤田さんは、険悪に見えるほどの表情で私に向き合われた。
藤田さんの背後に、1000匹の犬のいっせいに鳴きたてる声が空中にひびきわたり、私は目のくらみそうな恐怖に耐えながら、「この前お預けした犬の迎えにきました」と言った。
恐怖というのは、危害を与えられると感じたのではなく、かって経験したことのない強烈な力に圧倒される感覚を受けた、ということである。


「言ったでしょう。ここに入った子は、二度と、出さないって。不幸にしたくないの。信用できない。」
「でも、私も言いましたでしょう。迎えにくるから一時預かってほしいのだ、と。」
「あなたは、うちのこの状況をみて、こんなところにおいておきたくないと思ったのでしょ。」
この言葉を言われた時の藤田さんの視線はまさにナイフのようだった。
彼女がいかに身勝手な人に傷つき、いかに懸命に闘っているかを具現させている視線だった。
「そうではない、と言ったらウソになります。でも私が迎えにきたのは、そういう事情以前に、最初からそのつもりだったからです。あなたは犬の命を守るために、これだけのことをされて、言葉も出ないほどです。私にはとうていできないですが、でも、私なりに本気なんですよ。あなたは数でそれをはかるのですか。」


藤田さんは、三匹の犬を返して下さった。私はボランティアの人と、たくさんの犬たちの中に入って三匹の子を連れ出し戻った。


この日を最後に、私は藤田さんに会ってはいない。ただ年に二回、藤田さんから通信が届き、私も年に二回、わずかなカンパをしている。
私が犬を返してもらった、という話は、知る人ぞ知ることとなっていたようだ。時々、このことで、「藤田さんから犬を返してもらったひとは他にいない」とわざわざ言ってくる人もいた。
また余談だが、この時の三匹の犬は、親犬は友人のEさんが引き取って下さり、子犬は練馬のMさんと、横浜のOさんの家の家族になった。あれから十数年だ。
みんなもう虹の橋に逝っただろう。


藤田さんの通信は、年々穏やかになっている。
数年前から、貰い手探しもされているようだ。
今はきっと、預けた人が迎えに行ったら、穏やかに返してあげておられるだろう。
こうなられるまで、どのような逡巡が内にあったことだろう。


私も随分大人しくなった。私は子供の頃から真面目などちらかというと優等生タイプで生きてきた人間だが、捨てられた猫たちや犬たちの悲惨を受け止めるようになってから、いつも火をかぶっているような烈しさを出すようになってしまっていた。・・・この時期が過ぎて、透明人間のように誰にも気にとめられない薄い存在になった。(笑)


それでも、藤田さんのことでは今でも強気になる。
何年か前、ある行政の人と話していたら、その人が藤田さんを悪く言った。
私は、藤田さんは一人であれだけのことをされている。行政は何もしないではないか、と言い返した。
するとその人は尚、藤田さんの不備の点を言い立て、私は烈火のごとく怒った。
「個人で実際に動物の生命を守っていれば、そりゃあ至らない点も出てくるでしょう。特にあら捜しをして相手をやっつけたいと思う人間の目にはね。あなたのポストと、権力と、お金を藤田さんにあげなさい。彼女は慈愛で、今日本が抱えている動物問題の多くを解決して下さるでしょう。」と。


この言葉は私の本心である。彼女の慈愛をもってすればできるだろう。

長崎 久間氏の発言

本当は眠くてならないのだが、夫が起き出して活動をはじめたので、様子を窺いながらブログを書く。
9日の長崎は原爆によって亡くなった方たちの慰霊のイベントがあった。テレビ報道でその様子を観る。
久間さんの、「原爆が落ちたのは仕方がない」発言について、慰霊に来ていた人たちにインタビューをしていた。
それを聴いていて、静かな違和感を覚えた。久間さんの発言は確かに顰蹙かうものだ。特に被害にあった方が怒りややり切れない思いを抱かれるのは当然だろう。そのことに違和感なのではない。わざわざ取り立てて久間氏への反感や怒りを引き出すマスコミのあり方への違和感だ。
久間さんへの怒りを発することで充足してしまうことへの違和感。
私たちは、怒りの後、何を学ぶか、目指すか・・・・である。それは自分の生き方の方向性を見つめることでもある。そして、私達人間は、愛というものを大事だと唱えながら、実は愛のない方にない方に突き進んでいるという実感でもある。

梨の季節到来

お気に入りの梨園がある。毎年梨の季節になるとそこへ行き、贈答用ではなく、家庭用にビニール袋で売っている梨を買う。認知症になってから夫は果物やアイスクリームが好きになったのだ。アイスクリームは、この前の検診で主治医の先生から、「ご主人は冷たいものは食べない方がいいね」と言われて夫自身が欲しがらなくなったので、もっぱら果物をデザートやおやつにしているのだが、スーパーで買ったものは、「まずい」と言って食べないことがある。
そこで、梨が販売されるようになるのを今日か明日か、と待っていたのだ。
そしてついに、今日、お気に入りの梨園のお宅の前をわざわざ通りかかったら、梨の幟が立ち並んでいて、梨販売が始まったとわかった。すぐに入って行くと、顔見知りの梨園のご主人とおばあちゃんがいらして、「やあ、やあ」。
「千円分でいいんですが」と言うと、「おまけだよ」と二千円分ぐらい袋に入れて下さった。
いそいそと帰ると、裏手のお宅の奥さんがいらしたので、梨を差し上げる。このお宅からはよくとり立てのお野菜をいただく。私の方のお返しは、こうしたささやかなものである。


梨は朝摘んだものだから新鮮で瑞々しく美味しかった。夫は最近は摩り下ろしたものしか食べられないので、摩り下ろしてスプーンで食べる。満足そうな表情に私も満足である。

かずこさん
ありがとうございます。私も何だかんだと言いながらも、朝青龍さんはきっと心技共にゆるぎない横綱になられるに違いないと祈っています。

暑さが続きます。かずこさんこそ御自愛下さいね。
私はある問題で八方塞がりの苦しい時期が続いてもうお手上げ状態でしたが、何とか明かりが見えるところまでこぎつけました。その問題が解決すればいろいろな意味で余裕が出てきますので、あとは夫とうちの動物たちと私なりで私たち流に生きていきます。
ではでは。

あつい されど

我が家はクーラーを使っていない。ついてはいるのだが犬が外のコードを齧って使えないのだ。三回直してもらったがまた齧られ、四回目は直しを頼んでいない。それでここ三年ほどクーラーなしの生活である。


それやこれやでの猛暑の続く日々、炎天下の安普請の家の中にいると、文字通り茹だりそうな暑さである。
それでもケロリと熱いお茶を淹れて飲んでいる。「こんなもんだ」と決めればどうってことない。


でも今日(8日)は、熱中症的症状が出た。頭がぶわっと熱くて締め付けられるような重い痛みがあって、ついには吐き気を覚えた。夫もごろごろと寝転がってばかりであった。二人とも完全に暑さにやられている。


高齢で自宅療養中の犬チカちゃんとゴンがいる部屋に、台所に置いていた扇風機を持って行ってつけてやる。心なしか二匹がほっとしているように思える♪ その分、台所の暑さといったら言いようがないほど。


だけど、こういう暮らし、嫌いじゃない。・・・と、何事も、「これって嫌いじゃない」と自分に言い聞かせ言い聞かせ頑張ってきたなぁ。そうしなきゃどっかでとっくに停まってしまっていただろう。


この後、どのようであるかわからないが、無理はするまいと思うようになった。この無理というのは、人間関係の無理だ。生来の、良く言えばお人よしというかに加えて、「こう言っては失礼だ」「傷つけてはいけない」「悪く思ってはいけない」と自分を無くするようにしてきた。
これらは本当に本当に愚かな思い上がりの気遣いで、いや気遣いなどというものではなく、ただの卑俗をさらしていただけであるとやっと本気でわかった。
そう、自分の度量を越えた自分勝手で独善な無理をしていただけなのだ。こんな無理は、自分にも人にも何の実りにもならないのだ。m(_ _)m

夫の怪我

今日(日付が変わったので正確には昨日だが)、ディに夫を迎えに行くと、職員さんから、「牛乳工場の見学に行った時ころんで擦り傷をつくりました。ズボンにも血がつきました。本当にすみません」と謝罪された。
今日は短パンをはかせていたので、ころんで膝にでも擦り傷ができたんだろう、ぐらいに思って私はかえって恐縮してしまい、「お手数かけました、ありがとうございます」とお礼を言って帰宅したのだが、うちで傷を確かめようと見ると、後ろのお尻の下のつけねにガーゼがはってある。
ころんで擦り傷を作るような場所ではないし、ズボンにまで血が滲んでいるで、「どういう状態だっただろう?」と少し気になるものおこったが、本人に訊いてもはっきりしない。傷を見ようと、ガーゼをはがそうとしたら痛がって怒る。仕方がないので、そのままにして就床に。
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8日の朝になって入浴時にあててあったガーゼをはがしてみた。やはり擦り傷である。ディ施設での入浴時にころびかけて何かにぶつかりこすったのではないかと思う。
あるいはトイレの便座にドボッと挟まれた格好になって傷ができたのかもしれない。
大分前になるが、家でそういう状態になって、お尻の付け根がまだあざになっているのだ。そこと同じところでの傷である。


ちょっと目を離した時に、思わぬことが起きる状態なのだ。
何しろ、本人が、自分がどこかに移動したいと思って動き出した時、そこに何かがあると、それをよけて進むのではなく、それをまたいで行こうとするのである。
忘れもしない2000年の正月、長男と私と夫であるレストランで食事をしていたのだが、夫がトイレに立ち、すぐそばにあったので、そこを指さし、私もついていくつもりでいたら、夫はさっさとそちらに行こうとし、隣りの大学生らしい若者が数人いる席をつっきろうとして、一人の若者の頭をおさえてまたごうとしたのである。
あまりの事態に私は息がとまりそうなくらい驚いたが、数人の若者、特にまたがれそうになった若者の驚いた表情といったらなかった。今も忘れられない。
この話は後に誰かに話すと、きまって爆笑となるのだが、この時は私は笑い事ではなかった。
頭の中が真っ白になるほどショックであった。
あれから7年半だ。今では何が起ころうと平然である。矢でも鉄砲でももってこいっ、てな心境でなきゃ、介護はできん。私の場合は、暮らしそのものに対してその心境だが。